◎聳え立つのは昔のオイルの壜。ガソリン・スタンドのレイアウトは、1920年代からそれほど変化はないようだ。でも、一昔前のヨーロッパでは修理屋や車屋の店先に給油ポンプが並んでいたりした。今でも旅行中にそんな風景を見つけることもある。


◎ミニカーを集めかけた頃、こんなガソリン・スタンドのアクセサリーに憧れたものだった。やっぱりジオラマは楽しいね。物体そのものよりも、ぼくは何かしら物語を求めているのかもしれない。


◎ドライブの途中に必ず立ち寄るガソリン・スタンドも一時代過去のものは、産業史跡としてノスタルジーの対象になっていく。デザイン的には、'50年代のガソリン・スタンドか好ましいけれども。


◎スポットオンは、ミニカーの出来も素踊らしかったし、こんなアクセサリーも充実していた。ノーマン・ロックウェルにガンりン・スタンドの情景を描いた作品があったけれども、この箱絵にも同じような哀愁を感じてしまう。


●ガソリン・スタンドでは販売促進のためのおまけをくれることもある。左はカストロール・オイルのジャガーXJR8、右は1960年代のシェルのおまけのF1のミニカー・キット。


◎ガソリンは基本的に各メーカーとも大差のない商品であるだけに、アドバタイジングが重要な販売戦略だった。それは熾烈な価格競争とは離れたところでのイメージ戦略だった。それにしてもこの時代の広告は上品で美しい。


◎ピストリックカーのガレージには、やはりそれにふさわしい小物を置いておきたい。こんなオイル差しなら、今でも使用可蛇です。


 ガソリン・スタンドの歴史は未だ100年には至らない。その第1号と目されているモノのひとつは、1907年にセントルイスの裏通りに登場したもので、高い櫓の上にタンクを置き、そこから延びたホースで給油するという重力式のものだった。それまでは街角のグローサリー(日用品や食料品を扱う雑貨屋)や薬屋で、缶や樽に詰めてガソリンを売っていた。現代のガソリン・スタンドの原型を最初に始めたのは、ボルチモアのダウンタウンにいた東欧系ユダヤ人、ルイス・ブラウスティンだったという。メーター表示の出来るガソリン・ポンプを開発したのも彼だったそうだ。1920年代には、巨大なサインポール(メーカーのシンボルマークの看板)、キャノピー(給油施設を覆う屋眼)、舗装されたドライブウェイ(進入路)、沢山の給油ボンブが備わった現代と同じ形のものがロサンゼルスに作られた。

 こうしてガソリンと自動車は、アメリカ人の生活様式を変えていく。ホリデーインやマクドナルドだって、その第1号店は自動車で移動する人をターゲットにしていたのだから。

 紀元前から石油は、建材、光源、武器として使われてきたけれどそれが再び歴史の表舞台に登場するのは、産業革命の技術革新で石油を掘削する技術と精製技術が確立された19世紀の半ばのこと。鯨などの動物油や植物油に代わる照明用の灯価の原料として資本家たちが目を付けたのが始まりである。だから発明するビジネスマン、エジソンが白熱電球の開発に成功して1882年に発電事業を起こすと、電気の普及は石油産業にとって存続に関わる大きな脅威となった。しかしそこで灯油に代わる新たな石油の需要として登場したのが、ルノワールの内燃機関に端を発する自動車の発明であった。

 休職中の鉄道会社の車掌ドレイクが、住民の信用を得るために大佐という偽の肩書きを名乗ってペンシルヴァニアの寒村に乗り込み、ひたむきな努力で石油を掘り当てたのは、ゴールド・ラッシュから10年後の1859年のこと。たちまちオイル・ラッシュが始まり、石油会社が乱立した。南北戦争後のアメリカ経済の未曾有の発展期に、競争が激化する中で他社を食いつぶしながら巨大化していったのが、東部のワスプロックフェラー率いるスタンダートで、その容赦の無い行為は世間からの非難の的だったが、この敬虞なキリスト教徒は純粋に資本主義経済の実践をしているだけだったから、いささかも良心の痛みを感じていなかった。そして、そのスタンダートの金に政治家たちが群がるようになる。しかし次第にスタンダート糾弾の声が世間に昂まると、ついに裁判所は1909年にスタンダート解体の命令を出し、いくつかの会社に分割した。やがてそれらは成長してエクソン(エッソ)、モービル、シェブロンなどになっていく。また一投千金を夢見る野心家たちによって、カリフォルニアやテキサスなどアメリカ各地で石油が発見されて、ガルフやテキサコなどのちにメジャーに育つ石油会社も登場した。

 ヨーロッパでは、カスピ海のバクーを中心にロシアの石油利権を巡って、スウェーデンのノーベル家とフランスのロスチャイルド家が争った。ロスチャイルドの支援を取り付けたのは、イギリスのサムエル兄弟だった。彼らの父親は、ブライトンなど海辺のリゾートで女子供相手に貝殻細工のみやげ物屋をやっていたが、やがて貿易商となって工業製品の輸出に携わるようになった人物であり、日本へ最初に自動織機を送った人物でもある。息子たちは横浜・神戸でサムエル商会を経営して、1894年からの日清戦争の際には武器と軍事物資を調達した。東洋で最初に成功したユダヤ商人と謂われる彼らは、このように日本との縁も深かった。のちにサムエルが自社タンカーに貝の名前を付け、自らのシンジケートをシェルと名付けたのは、そんな父親の商売に由来する。サムエルは世界中の市場でスタンダートに戦いを挑んだ。スタンダートの青い石油缶に対抗して彼らは赤い石油缶を用意した。だから今でもシェルのドラム缶は赤色なのである。

 石油の歴史について語ることは、そのまま現代を語ることになるだろう。ライト兄弟の最初の飛行機に使われたのは、スタンダートの燃料であったし、第一次世界大戦から21世紀最初の戦争に至るまで、石油は常に重要なファクターだった。はたして石油の歴史は、いつまで続くのだろうか。








◎エッソにはキャラクターがいた。この女の子はいちじくではなく、オイルのしずくをシンポライズしたものだ。エッソはまた、パワーをシンポライズしたタイガーもキャラクターにしていた。
AUTO MOBILIA FILE 16(285号掲載)
「月刊CAR MAGAZINE」(ネコ・パブリッシング発行)に好評連載中です。
参考のため許諾転載させていただきました。

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